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ぶらり・ぶら~り

第89回 団塊おばさんの台湾珍道中10日間 Part2 (2011/12/21)

3日目 花連~台中~鹿港(ルーガン)~埔里

午前7時57分、花連発台北を経由して台中へ向かう。買ってきたお弁当を食べる。台北までは3時間。本日向かうルーガンの資料を見たり、車窓を眺めたり、のんびりした旅です。

そんな時、ふとこの電車、高雄行である事に気がつく。このまま乗っていれば台中に行くことが出来る。台北で乗り換えても乗り換える時間とチケットを購入する時間等考えればこのまま乗っても???さて、車掌さんに聞きたいが英語が通じそうもない。先ず中国語で私の聞きたい事を調べてメモ。そのメモを提示するが、私達の希望を理解してもらえない。

私の後ろに英語が理解出来そうな青年がいる。一か八か「英語話せます?」「イエス!」「実は・・」彼は直ぐに車掌さんに聞いてくれました。しかし、電車は台北から指定席が無いとの事、2時間以上立っていなくてはならないから台北から新幹線に乗った方が良いとの事でした。でも駅の事情も解らず時間が掛かってこの電車より遅く到着してしまうのでは(;´-`)

すると「台北で手伝ってあげるよ」なんて親切な青年でしょう。彼の誘導で新幹線のチケット購入もスムーズにおわり、台北到着30分後には私達は新幹線の座席に座っていました。高良健吾似の彼はアーミーさんで、ご実家に一時帰宅の途中だったそうです。あっという間の事でお名前や住所を聞きそびれました。

12時19分に無事台中に到着
蒋介石が愛して止まない「日月鐔」へ行く準備をしていて「鹿港(ルーガン)」を知る。同じ台中駅が最寄り駅だった。何か魅かれる物を感じ行くことにした。台中駅からバスで約1時間。

初日にタロコ号が予約出来なかった事がここでも影響、でも過ぎた事は仕方有りません。
12時19分に台中到着後、13時5分発鹿港 行のバスが有る。3人はそれ行けと4番乗り場へ。鹿港での持ち時間は3時間です。

鹿港は清代に栄えた貿易港で歴史のある旧い街並みが老街として人気の観光地。私達は「鹿港車站」の看板が有る建物の前で下車。中に入って行くと日本語で迎えられた。ボランテイアで運営されている鹿港の観光案内所らしい。

片言の日本語で親切に接してくれた。そこへ、ツアーガイドで時々こちらのボランテイアをしている邱鈺惠さんがやって来た。彼女は英語が出来ました。建物の裏には線路跡があり、日本統治期の台湾製糖株式会社が敷設した、さとうきび運搬用(ついでに旅客運行もしていた)の軽便鉄道の駅だったらしい。邱鈺惠さんとボランテイアさんと記念撮影。

夕方には埔里へ行く予定で滞在時間は3時間、地図を頼りに歩き出す。先ずは昼食!第一市場にお目当ての水晶餃子目指すが、当日はお休みだった。ペコペコの私達何でも良いから食べようと入る。昼食時間はとっくに過ぎていて、残っているのはこの写真の物だけだった。残り物に福有り?ちまきも春雨も安くておいしく、しかも安かった(^_-)v.

どの観光地も同じだが、小さな町でもゆっくり過ごせば一日はあっという間です。
どの町にも魅力敵な所が多々有ります。鹿港も同じ、たった3時間では・・・寺院、博物館、日本統治時代の建物、レンガ造りの町と、スポットはガイドパンフに掲載されている物だけでも31有ります。

先ずは鹿港の誇り、一級古跡の寺「台湾の紫禁城」と呼ばれている龍山寺。台湾には有名な龍山寺が5ヵ所(台北の萬華、台南、鳳山、淡水)にあり鹿港の龍山寺もそのうちの1つです。清朝初期の1653年に建立されたと伝えられており、1786年に今の場所へ移されました。近づくと木の梁に色彩画が描かれているのが解ります。当時は華やか寺だったのでしょう。でも落ち着いて雰囲気で心が癒されます。

龍山寺正殿

龍山寺正殿

鹿港龍山寺正殿にある八卦門

鹿港龍山寺正殿にある八卦門

次は中山路を進みます。並木道が見えると天后宮への入り口です。参拝者や観光客が大勢です。
お店も多くにぎやかな場所です。

1647年に建立された、媽祖(道教における航海の守護女神)を祀る三級古蹟、鹿港天后宮。1952年に天后宮と改名され、現在は媽祖の他に、お産の神様である註生娘娘、学問の神様である文昌帝君、 武芸と商売の神様である関聖帝君などが祀られています。
天后宮に興味の有る方はこのサイト参照

鹿港后宮と入り口門

鹿港后宮と入り口門

八角天井

八角天井

鹿港車站ヘ戻りながら、鹿港の一番のお目当て九曲巷を通ります。細いT字路や曲がりくねった道を歩きます。旧暦の中秋節が過ぎると「九降風」という東北季節風が吹くことから、強風や砂埃を防ぐために作られた道です。レンガ造りの壁を両サイドに眺めながら、タイム スリップしたような気分に。その昔は出入り口に扉があり、不審者の侵入を防いだ他、寒い時期には防寒空間として使われたそうです。(旅々台北HP抜粋)

鹿港九曲巷

鹿港九曲巷

鹿港九曲巷

鹿港九曲巷

予定の17時半には鹿港車站に到着、台中に向かってバスで戻ります。
ところが予定の時間になっても台中高鐵駅に到着しません。ボランテイアさんが私達の行き先を伝えてくれた筈なのですが、台中は大きな都市でした。運転手さんが「何処のホテル?」なんて聞かれてびっくりです。どうも駅はとっくに過ぎたようです。方向違いの同じ会社のバスに乗るように指示されました。少し走るとバスターミナルへ連れて行かれました。高鐵駅行きのバスがやっと来たのですが満員で乗れません。タクシーで行くことになりました。200$(約570円)金額の問題ではなく私達が負担する事に納得がいかず抗議したのですが、駄目でした。時間がもったいなくなりここは引き下がりました(>_< )

本日の宿はGuest House Puliです。
オーナーはアラフォーの渡部さんです。遅れた事を携帯で連絡を取りました。バス会社の若い職員に事情を説明してもらい私達の気持ちを伝えてもらえました。
何はともあれ無事高鐵駅に到着後バスに乗り埔里のバス停に到着。お迎えの渡部さんと初めましての挨拶をしてほっとしました。

空腹の私達を夜市に連れて行ってくださいました。花連の夜市とは又違って今回は日本の縁日が爆発した様な熱気にバス事件等すっかり忘れてしまいました。写真を撮る余裕もなく夜市のパワーに驚きながら光と喧噪の中で食事を済ませました。

今日は多くの人と出会い、貴重な体験をして本日シャワーを浴びて就寝です。

4日目 武界『布農族の部落』ハイキング&日月潭

渡部さんの案内で午前中は武界へ、山・水・空気が素晴らしい自然の中をハイキングしました。『布農族の部落』ほぼ自給自足生活をしているという事でした。ハイキングの後、立ち寄ってくれましたが、静かな部落で時間が止まったようです。あまり人にも出会いませんでした。村全体には200世帯にも満たない住民が暮らしており、人口約800人からなるとても素朴な美しい部落です。

午後からは日月潭まで送ってもらい渡部さんが教えてくれた通りに歩いてみました。
渡部さんのお勧めは、先ず慈恩塔への歩道をゆっくり楽しむ。日月鐔からの一望を楽しむ。
同じ歩道へ戻り青龍山歩道を歩くと船着き場にでます。そこから船に乗り対岸からバスで埔里へ戻ってくる半日のコースでした。

慈恩塔駐車場で下車、ここでお弁当を頂き700mの歩道を上りました。途中には休憩出来るように東屋があります、傾斜は緩やかでした。塔には二重の螺旋階段が有ります。頭頂には鐘が有り観光客が打つ事が出来ます。あまり強く打たないで優しく打ちます。

慈恩塔は蒋介石が母親の王太夫人を記念して建てた。1971年4月に完工。海抜954メートルの沙巴蘭山(二龍山)山頂にあって、塔の高さは46メートル だから、塔頂の高度はちょうど1000メートルになる。外観は中国宝塔式の建築で、九層をなしている。上からは日月潭が一望できる。日月潭の周囲でもっと も視野のよいスポットである。(日月潭HPより)
(日月潭の事はこのサイトで

塔最上階からの景色

塔最上階からの景色

慈恩塔全容と鐘

慈恩塔全容と鐘

慈恩塔でかなりのんびりしてしまいました。階段を下り青龍山歩道に移動です。この歩道は下るだけです。港は人でにぎわっていました。埔里ヘ戻るバスに乗れる為の船を探し乗船しました。船室は人で一杯です。

後から相席になった香港からの家族と一緒になりました。とてもフレンドリーで少年が「ウサギとカメ」を歌ってくれました。彼が質問します、「かめ」を「神」と思っていたようです。そこでこの歌の説明をする事になりました。そして船内で大合唱です。今年アメリカへも持参したメッセージを受け取って頂きました。台湾語に作り替えて行ったのです。この話になると涙を流して「頑張って!」と励ましてくれました。ここでも温かい人の心にふれあいました。

埔里へのバスの中でも仲間が小学校の教師と相席になり、ターミナルに到着した時に自分が乗るタクシーで宿まで送ると行ってくださいました。私達は宿までの町を歩きたくてお断りしたのですが、おばさん3人の事が心配だったのでしょう。そんな話をしていると又、少し日本語の出来る方が、私達が困ってその青年に何か尋ねていると思ったらしく声をかけてくださいました。台湾の方は本当に親切です。問題は解決して親切なお二人とお別れし、埔里の路地や市場を見物しながら宿に到着しました。今日も沢山台湾の方々から愛を頂いた気がします。就寝Zzzz・・・

ぶらりさん自己紹介

世界で一番人口の多い団塊の世代・1947年生まれの好奇心いっぱいの獅子座です。

忘れた頃の5人目で、比較的自由に育ちました。生まれは熊本・小中学校時代は下関ですから育ちは下関かも知れない。存在感のない子供でした。親からも同級生からも忘れられることが多かったので、気ままにテクテク歩いたりラジオ・テレビに興じたりしていました。今の生活にそんな育ち方が反映しているかも知れません。

運動神経の悪かった私は歩きというスポーツを見つけて20年すっかりアルチュウ(歩く中毒)になっています。社会性に乏しい割にはここ10年位は旅仲間と4~10人くらいで海外旅行を楽しんでいます。